被災収蔵品処置の記録 ―収蔵品を追う― ~漫画分野編~ <岡本一平漫画原画>

【作品解説】
作家名:岡本一平(1886 - 1948)
作品名:《岡本一平漫画原画》1910~20年代、インク・洋紙
解説文:漫画家岡本一平が大正から昭和にかけて、新聞や雑誌などに発表した漫画の原画です。
岡本一平は、滑稽な絵と文章が一体となった「漫画漫文」というスタイルで一世を風靡した戦前期を代表する漫画家です。原画の大きさや、描き方も様々であり、原画の横に文章が添えられたものも多数あります。その時代における漫画の受容の状況や、制作過程がうかがい知れる重要な資料でもあるといえます。
被災時、作品は中性紙箱に入っており、薄葉紙を間に挟み100枚近くがひとつの箱に収められていました。ほぼ箱に入った状態のまま収蔵庫から搬出し、東洋美術学校に運び込みました。

【作品画像】

処置前 処置後

【被災の様子】

漫画作品が収められていた第8収蔵庫の様子

【レスキュー作業工程】
被災した漫画資料に関する作業は、主に下記の流れで行います。

① 写真撮影により状態を記録し、目視でも確認
② 付着物について分析装置を用いて資料を調査
③ 資料の記録台帳を作成
④ 資料を乾燥させた後に刷毛やスポンジなどを用いたドライクリーニング作業および水洗によるクリーニング
⑤ 余分な水分を取り除き、資料の加圧吸水を行い平らにする「フラットニング」処置
⑥ 処置後の記録撮影および各種計測

ご協力をいただいたお二人の先生に、お話をうかがいました。
松田泰典先生(東洋美術学校 保存修復科 教育研究スーパーバイザー)
小野慎之介先生(東洋美術学校 保存修復研究室 室長)

松田 泰典先生 小野 慎之介先生

【インタビューについて】
取材日時:2020年12月9日
取材場所:東洋美術学校
取材者:川崎市市民ミュージアム 佐藤美子 新美琢真 杉浦央子

―被災状況を見て、どのような印象を持ちましたか?

(小野)収蔵庫に入ったのは2019年11月。その時は白いカビが多かった印象があります(後にこれは主にツチアオカビであることが明らかとなった)。綿のようなものがあって、作品の表面にも生えていたと思いますが、白い紙なのでよく見えませんでした。ミュージアムから東洋美術学校に作品を運んだのは12月くらいでした。
(松田)(台風の様子を見て多摩川周辺の)状況をずっと心配していましたが、まさか市民ミュージアムが被害を受けるとは思っていなかったです。被災したと聞いて、大変なことになると思いました。また、台風後、館の周りや緑地は特に変化がないのに館内だけがあんなに被害を受けていることに驚きました。地下の被害がすごいですが、外観だけを見た人は特に変わっていないように見えると思います。
私たちが防護服に着替えて地下に入った時、中はカビの臭いがしていましたね。

―東洋美術学校での処置はどのような内容でしょうか

(小野)被災した作品は、まとめて袋に入れて学校に運び、いったん冷凍保存してカビの繁殖などを止めました。その後、あらためて作品を確認して処置方法を検討し始めました。


冷凍庫に保管している漫画作品

(小野)修復作業については、そもそも「漫画原画の修復」とは何なのか、というところから考える必要があると思います。「修復」といっても、みんな思い浮かべることは違うはずで、まずはそれを共有する必要がある。収蔵庫で被災した漫画の作品や資料を見た際に「被災前には戻せない」と思いました。しかし、それでもこの作品を残していくのであれば、そのためにやらなくてはならないことがたくさんある、とも考えました。
そこで処置を検討したわけですが、作品の“きれい”には二つあると考えています。ひとつは“目に見えるきれい”、もうひとつは“目に見えないきれい”です。「目に見えるきれい」な状態には戻せないと感じましたが、「目に見えないきれい」をどう実現していくか。それを考える必要があったのです。「目に見えないきれい」とは、見た目をきれいにすることではなくて、どのように劣化要因となる物質を除去し長期保存が可能な状態にしていくかです。なので、今回の処置は「修復」という感覚ではありません。「修復」は見た目を元通りにするという風にイメージされがちですが、自分たちはそういう立場はとらない。作品にダメージを加えてまで見た目を復元しようとはしません。ですので、作品の状態を安定させる「安定化処置」という言い方の方がふさわしいと思っています。

(松田)自分たちのような保存修復に関わっている人間は、時間軸でモノを考え、遠くを見ています。10年、20年、100年後に岡本一平の原画がどうなるかを心配している。紙が弱くなると、描かれた画像が見えなくなります。「今見えているか」だけでなくて100年後の人たちがちゃんと見えることをどう担保するか。そう考えると、すべきこと、そうでないことがクリアになります。
ものは完成した時から少しずつ壊れていきます。そのスピードをゆっくりさせる必要がある。今回、市民ミュージアムの収蔵品はその劣化の度合いが急速に上がったわけですが、この状態を直視した上で、劣化のスピードを遅くする作業をこれからやっていくことになります。

―具体的な処置内容はどのようなものでしょうか

(小野)作品に処置を施す前に、少し化学的な分析を行いました。目で見てもわからないため、作品の状態を可視化することで何をすべきなのか明らかになります。例えば資料と一緒に被災した廃棄予定の保存用紙材というものがあります。保管のために作品を包んでいた紙や箱ですが、これらをサンプルにしてクリーニング方法を変えたものを用意し、それぞれを強制劣化試験(熱を与えて劣化させ、物質の変化を調べる試験)にかけます。その後で、例えばセルロースの平均分子量(重合度)変化を見ていくと、処置方法の違いが資料の保存性にどう影響を与えるのかという情報を得ることができます。我々の実験では、今回の被災資料の重合度低下(セルロースの分子鎖が切れて分子量が低下していく様子)のスピードは非常に早いです。今回の調査で原因と考えられる成分を見ていくと、被災サンプルにはギ酸や酢酸などの有機酸やアルデヒド類が豊富ですが、これを乾燥させてドライクリーニングしただけでは、未処置のサンプルの保存性とほとんど差がないことも分かりました。ただこれを1時間ほど精製水に浸すと、重合度低下のスピードを一定期間は抑えることができます。実際はこれだけの結果で処置方法を決定することはできませんが、ある方法を選択する際にそこにどのような効果とリスクが存在しているのかを十分に理解しておく必要があります。またドライクリーニングの際に使用するスポンジなどの消し具類には素材をやわらかくするための物質(可塑剤)が多く含まれていますが、これが処置を通じて作品に移行する様子も見えてきました。こういった物質が将来的に資料にどのような影響を与えるのか、今のところ未知数ではあります。そして最後に今後の課題ですが、このような安定化処置の効果の確認を実際の資料に対して非破壊で行える仕組みにしていくことも、我々の重要な仕事だと考えています。

[作業手順]
調査・分析は様々な装置を使って行いました。

◆フーリエ変換赤外分光分析法(FT-IR)
赤外線を吸収した分子の双極子モーメント変化に起因する振動パターンから、分子構造や官能基に関する情報を得る分析手法。今回のプロジェクトでは汚染状況の確認や繊維鑑別、また洗浄度を評価するための予測モデルの構築に利用している。

◆蛍光X線分析法(XRF)
X線の照射を受けた試料面から発生する特性X線より元素分析を行う。作品に使用されている素材や顔料の推定、また被災資料に特有の元素を確認している。

◆熱脱着ガスクロマトグラフィー質量分析法(TD-GC/MS)
数mg程度の試料を200℃程度まで加熱し、熱脱着した成分をカラムにより分離後、質量分析により同定を行う。濃度の異なる目的成分の標準試料を用いれば、定量分析も可能となる。汚染状況の確認とともに、処置方法の違いと洗浄度の関係を観測している。

フーリエ変換赤外分光分析装置(FT-IR) 蛍光X線分析装置(XRF)
熱脱着ガスクロマトグラフィー質量分析装置(TD-GC/MS)

調査・分析が終わった後、作品の乾燥作業を行い、「ドライクリーニング」とよばれる刷毛やスポンジを用いた汚染物質の除去作業や水洗クリーニング、作品を平らにする「フラットニング」といった作業等を実施します。
作品の安定化処置は、保存修復科の学生にもご協力をいただきました。

―作業に参加して、どんな感想を持ちましたか?
(学生A)作品のドライクリーニングを担当しました。最初に被災した作品を見た時はショックでした。紙にカビが生えた状態を見るのが初めてでしたし、作業していてカビが生えた部分の紙がとても弱くなっているという実感がありました。カビを取ったら解決というわけではないと感じましたし、どの弱くなった部分をどうやって守っていったらよいのか、という点を考えないといけないと思いました。

(学生B)作業にあたって、マニュアルのようなものがあるのかと思っていたらそんなことはなくて、実際に作品に触れると作業の方法など試行錯誤しないといけませんでした。

―漫画原画の保存や修復、安定化処置は前例がほとんどなく、これから様々な研究がなされていく分野とのことですが、今後の展望などをお聞かせください。

(松田)保存継承については、まず原画の散逸を防ぐことが一番大切。現物をアーカイブすることです。日本でこれができなければ、海外でもできないです。現物が残っていれば様々な活用の仕方があります。コピーを作り積極的に展示することもできます。

(小野)やはり、ものが残っているということがとても大切です。

(松田)それから、「Vital(バイタル)」という考えも大切だと思っています。「バイタル」とは人間でいえば血圧とか心拍数とか、生きている状態を示す数値です。作品の「バイタル」は時間が経つと下がっていくわけですが、それを変化しないようにどうするか。(カビや汚れを除去するなど)部分的に処置を施す時に、作品や資料全体のバイタルを下げない処置ならよいですが、結果的に他の部分に負荷がかかるようであればやらない方がよい。「見えるきれい」はひとまず置いておいて、作品そのもののバイタル、命の方を大切にするという考えです。

―ありがとうございました。

作品の今後の処置について
引き続き、化学的な分析を行ったうえで処置方法を検討していきます。
漫画原稿の修復や安定化処置は前例が少なく、未知数な部分が多くあります。今回の事例が今後に活かされ、役立てられるよう作業を進めていきます。

以上

【先生方のプロフィール】

松田泰典先生(東洋美術学校 保存修復科 教育研究スーパーバイザー)
1981年東京芸術大学大学院(保存科学)修了。民間の研究機関で研鑽を積んだ後、1993年東北芸術工科大学芸術学部助教授、文化財保存修復研究センター長および教授を歴任。東北地方の文化遺産の保存科学、防災・減災研究を進め、北海道・東北保存科学研究会、山形文化遺産防災ネットワークを設立・活動した。2009年~2016年JICA大エジプト博物館保存修復センター(GEM-CC)プロジェクトのテクニカル・チーフ・アドバイザーとして現地でコンサバター育成に従事した。2016年から現職。専門は保存科学・保存修復教育。

小野慎之介先生(東洋美術学校 保存修復研究室 室長)
2016年に花村えい子氏の原画整理と保存状態調査を行ったことをきっかけに、漫画原画の保存活動に取り組んでいる。2017年からは文化庁のメディア芸術連携促進事業に参加をし、横手市増田まんが美術館の収蔵原画に対するケモメトリックスを利用した非破壊強度予測や、谷口ジロー氏のカラー原画に対する微小域耐光性試験(Microfade testing)、また「あしたのジョー」のラストシーンに対する光学的手法を用いた保存状態調査などを実施した。大量にある漫画原画への予防保存対策とシステム構築を研究テーマとしている。