被災収蔵品処置の記録 ―収蔵品を追う― ~グラフィック分野編~ <アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン>

「被災収蔵品処置の記録 ―収蔵品を追う―」では、当館の収蔵品を紹介すると同時に、収蔵品に施した処置をお見せしながら、作品・資料の保存や修復についてご説明いたします。

作品解説

被災前(左)と被災後(右)

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
《アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン》
1892年、リトグラフ・洋紙、147.7×97cm

19世紀末のフランス・パリで活躍したシャンソン歌手アリスティード・ブリュアンが、カフェ・コンセール(歌や寸劇などの出し物を見せる酒場)「アンバサドゥール」に出演する際に、親友のロートレックに制作を依頼したポスターです。単純化された形態と色彩で構成された大胆な表現は、支配人が一時掲出を拒否したほど衝撃的だったといわれています。
ブリュアンの髪や手袋の部分には、ロートレックが自分のものとしていた「吹付け」(インクの付いたブラシをナイフの刃などでしごいてインクの霧雨を飛ばす)技法が使われています。また、当時は大画面のポスターを刷るのに十分な大きさのプレスを所有する印刷所が少なく、しばしば2枚一組の原版を2回に分けて刷る方法が取られました。本作も上下半分の画面が刷られた2枚の紙が貼り合わせられています。
本作品は、令和元年東日本台風の被災当時第7収蔵庫に保管されており、庫内に流入してきた雨水によって被害を受けました。

レスキュー過程

1.搬出

排水後の第7収蔵庫は、横転した木製の引き出しや棚、カビが繁殖し始めた作品などが床に散乱し、足の踏み場がほとんどない状況でした。大型で重量のある作品が多かったため、手前から順次搬出して経路を確保していきながら、レスキューの優先順位を最高位に設定していたロートレックの作品を探しました。

被災後の第7収蔵庫

2.額はずし

作品を安全な場所に搬出した後、これ以上のカビの繁殖を防ぐために、額装を外して本紙を乾燥させます。川崎市市民ミュージアムの職員をはじめ、市職員、全国から派遣された学芸員や修復技術者がこの作業にあたりました。のこぎりやバール、電動ドリルなどの工具を駆使して、作品一点につき2、3名で協力しながら額を解体。特にアクリル板を剥がす際には、濡れた本紙と癒着していることが多く注意が必要でした。また、作品の裏打ちとボードを固定するガンタッカーを外すときも、手元が滑って作品を傷つけないよう気を付けました。

額はずしの様子

3.乾燥

大型のポスターを全て乾燥させるには膨大なスペースが必要ですが、他分野のレスキューも同時に進行していたため、スペースを節約しなければなりません。そこで、ヤマトグローバルロジスティクスジャパン株式会社の担当者の方と相談して、丈夫な三層構造の段ボールですのこを作り、10段程度重ねて保管できるようにしました。

4.燻蒸

十分に乾燥させた作品は館内の仮設燻蒸スペースに運びますが、安全に移動させるため、一定の大きさの作品は合紙を挟みながらある程度重ねて段ボールの保管箱に入れます。大形のポスターを乾燥させていたすのこには、最下段にキャスターがついておりそのまま移動できてとても便利でした。保管箱の蓋を少し開けておいたり、箱自体に予め空気穴をあけるなどしてガスが全体的に行き渡るよう、密閉されないように気を付けます。

5.カビ払い

燻蒸が終わった作品は、別の場所に移動させて、カビ払い処置をします。この作業は文化財保存支援機構(JCP)や国宝修理装潢師連盟の技術者より指導を受けながら行いました。ミュージアムクリーナーという先端に小さなブラシのついた文化財専用の掃除機と刷毛を使って吸引していきます。カビは燻蒸して不活性化していますが、吸い込むと健康被害が懸念されるため、タイベックスーツやマスク、ゴーグルなどを着用した上で、換気扇がついている専用のクリーニングボックスの中で作業をします。その他にも掃除や部屋自体の換気を徹底しました。この段階で、作品に付着した緑色の土汚れのようなカビや、ふわふわとした綿のような白いカビなどを除去することができます。目立った汚れがなくなるだけでも見違えるほどきれいになったように感じました。

修復

カビ払いを終えた本作を修復家に渡し、本修復を施していきます。
修復を担当した森絵画保存修復工房の森直義さんと、佐藤寛子さんにお話をうかがいました。

森直義さん(左)と佐藤寛子さん(右)

森直義  森絵画保存修復工房代表

ベルギー国立ラ・カンブル視覚芸術高等専門学校 保存修復課程修了。1994年工房を設立し、主に近現代美術作品を修復。印象派や現代美術の技法・状態調査、研究にも積極的に取り組んでいる。

佐藤寛子  主任修復士

吉備国際大学大学院 文化財保存修復学研究科 修士課程修了。
2010年から森絵画保存修復工房に勤務。多様な素材の作品調査・修復や展覧会コンサヴェーションに取り組んでいる。

――初めてミュージアムで被災したロートレック作品を見たとき、どのように感じましたか?

(森)作品が広い場所にザーッと並んでいまして、こういう風に申し上げてはいけないのかもしれませんが、死体安置所のような気配が漂っていて、これは大変だなと思いました。防護服を着て、それでもカビの匂いがするような感じがあって、ここで働いている人は本当に辛いだろうなと。もう本当に大変だなという印象を受けたことを覚えています。

――最初にご覧いただいた時に「これもカビですか?」と尋ねられましたが…。

(森)私たちがよく見るのは、小さく胞子状に広がっていてふわっとしているものです。ぽつぽつと点在しているものはよくありますが、あの時見たのは、あまりにも黒くて泥なんじゃないかと思うような状況で、こんなカビって存在するんだと思うくらいすごいカビでした。緑っぽいカビとか紫っぽいカビとか、黄色いカビとかいろいろありましたけれども、特に黒っぽいカビは…真っ黒だったので、すごい衝撃を覚えましたね。

――実際の修復の工程について教えてください。

(佐藤)まず撮影から入りまして、ライトをあてながら、どのようなカビが出ているかとか、破れはどこにあるとか、細かく現状調査をしてからドライクリーニングを始めました。
ドライクリーニングは水を全然使わないでドライな状態で、ケミカルスポンジや、ねり消しゴムを使います。あとはミュージアムクリーナーという吸引機を使って作業をしますが、それだけだと、カビがすごく固まっていてあまり落ちなかったんです。なので、まず物理的にメスで取って、さらに湿らせた綿棒を転がせて除去しました。

――その後が水での洗浄ですね。水は全体的にいきわたるようにしていくのですか?

(佐藤)紙の中に入っている汚れを落としていきます。水の中にアンモニアを滴下して、PHを調整して酸性物質を洗い流すという工程です。紙が濡れている状態なので、ゆすったりとかゴシゴシしたりはできません。1時間とか浸しておいて、またあげて、もう一度浸してという感じです。

――この後は乾燥させて、フラットニングという作業に入ります。

(佐藤)フラットニングは、今回は作品が大きかったので、フェルトのうえに不織布を敷いて作品を置いて、不織布、フェルトという状態にしました。その上にアクリル板を置いて上から重しをして1週間くらい待ちます。そしてフェルトを取り換えながら、作品に入ってしまった水分を取り除いていきました。乾かしながら、作品をまっすぐにしていきます。

――次の工程は補修ですね。

(佐藤)破れの補修については、最初から破れている箇所がかなりありました。あと穴があいていて違う紙で埋められている部分もありました。それらは裏打ちをとったり洗浄したりする過程で全部とれてしまっているので、破れている部分は薄い和紙を正麩糊(しょうふのり)で貼って補修してあります。穴が開いている部分は、作品の色と合わせてアクリル絵の具であらかじめ染めた紙を切り取って補填していきます。

――次が裏打ちです。

(佐藤)補修があって、その後裏打ちをして捕彩になります。もともとの裏打ち紙は、洗浄の前に全体を濡らした状態にしてはがしていきます。この時やっぱり糊が残ってしまうので、裏打ち紙を取りながら、本紙の裏に残った糊も水を付けた綿棒をコロコロ転がしてとっていく、という作業を同時進行でやります。

(森)特にこのアリスティード・ブリュアンの作品に関しては、裏打ち除去は大変だったんだよね。この後作業をした作品はそれほど難しくありませんでした。

(佐藤)この作品は洋紙で裏打ちされていたんです。洋紙は繊維が短いので濡れた状態でめくっていくと破れてしまうんですね。しかも本紙の方に紙が残ってしまうので、それを綿棒で除去しながら、糊もとりながら…という作業でした。

(森)延べ9日間の作業でしたね。想定したよりも相当時間がかかる作業でした。

(佐藤)軽く力を加えるだけでペリペリとはがれる作品もあり、和紙で裏打ちされているものは、ほぼ1日できれいにはがすことができました。新しい裏打ちは楮の和紙で行いました。

――そして捕彩の作業に移るんですね。

(佐藤)補彩する部分にメチルセルロースという接着剤を塗って、それを絶縁層にしてその上から補彩をしています。補彩が除去しやすいようになっているんです。

(森)紙のものなので、紙の中にしみ込んでしまうと、とれなくなってしまいます。それだと可逆性という意味で私たちの修復の倫理にかなわないところがあるので、除去しやすいようにしながらも、鑑賞上きれいに見えるように工夫をして補彩をしています。作品をどうとらえるかに関わってくるんですけど、…例えばこれが本の1ページだとして、本の内容が大事なので資料性が重要になってくるとすれば、むしろ破れていることが分かった方がいいかもしれない。そこまで手を入れる意味がない。

でもこれはポスターとして鑑賞していくものですし、もともときれいに見られていたものなのできれいにするという事を選んだ方が良いだろうと。資料的な存在ではなくて、ある意味美的な存在であるという風に判断するのが妥当だというところがありました。

作業工程について説明する佐藤寛子さん

――最後が額装の作業です。

(佐藤)今回はハニカム状の構造の中性紙で作ったパネルに、ピュアマットという中性紙の厚紙を貼り付けたものを使用しています。

(森)アクリルとも画面が離れるように、マットを二重構造にして厚みをもたせて余裕を作っています。欲を言えば低反射アクリルにすればいいんですが…。でも紫外線カットにしていて、後ろの素材も中性にしていて、全体で作品をカバーしている小さな理想的な収蔵庫のようなものを作ろうとしています。

――修復の過程で何か新しい発見はありましたか?

(森)これから修復が進んで、調査が進んでいくと分かってくることが多いと思います。まだまだ始めたばかりで、内容的な面白さまで踏み込めていないところがあります。これからの作品でも光学調査だとか、顕微鏡による調査をしながら、いろいろ勉強を進めていって、ロートレックの技法がもうちょっと分かるようになってくるといいなと。面白さを語るのはこれからという状況なので、あとは終わったときにお伝えしたいと思います。

取材の様子

――ありがとうございました。

※今回は森さん、佐藤さんにお話しをうかがいましたが、他にも本作品の修復には、紙の保存修復専門家の竹山郁子さんにもご尽力いただきました。ありがとうございました。

おわりに

本作に限らず、被災した作品はその事実や修復の過程・経過を伝える役割をも担いました。大変重いことではありますが、悪いことばかりではないと今では思えます。それは、実際に鑑賞に堪える状態にまで修復していただき、新しい額が小さな収蔵庫のように作品を守ってくれている事実に支えられています。今後、美術史の流れの中で作品を紹介するだけでなく、修復の工程を経て得た発見を伝えていければと考えています。

修復が完了した作品

【インタビューについて】
取材日時:2020年11月18日
取材場所:森絵画保存修復工房
取材者 :川崎市市民ミュージアム 誉田あゆみ 奈良本真紀