被災収蔵品処置の記録 ―収蔵品を追う― ~美術文芸分野編~<草薙の剣>

作品解説

 

 

安田靫彦 ≪草薙の剣≫
昭和48年(1973)
125.5×66.0
紙本着色

被災前 被災後(修復前)  

安田靫彦は日本の近代美術史を代表する日本画家の一人で、明治17年(1884)に東京の日本橋に生まれました。本作は安田靫彦が89歳の時に再興第五十八回院展に出品した作品です。やまとたけるのみことが相模で国造くにのみやつこの策略により弟橘比売命おとたちばなひめのみことと火に囲まれた際、剣で草木を薙ぎ倒して難を逃れたという『古事記』に由来した場面が描かれています。簡略化された背景と、考証に基づく詳細な描写のバランスが巧みな作品です。

 

館内での処置

搬出の様子

1.収蔵庫からの搬出
≪草薙の剣≫は第4収蔵庫に収蔵されていました。排水完了後の第4収蔵庫では、棚から額がずり落ち、書籍などの資料が床に散乱していました。水を含んで膨張した床板を張り替え、通路を開拓したのち、2019年11月14日に国宝修理装潢師連盟、文化財保存支援機構、全国美術館会議、国立文化財機構の協力を得てレスキューの優先順位が高い≪草薙の剣≫を収蔵庫より搬出しました。収蔵庫内は応急処置ができる環境ではなかったため、同じ地下階の広いスペースが確保できる整理室まで移動させました。作品は二重の桐箱に収められており、箱の中には抜けきらなかった水が残っている状態でした。

 

2.館内での応急処置
箱から出した≪草薙の剣≫は、水分を含んだ額装を外しました。画面を傷つけないように4、5人で協力しながら慎重に額を外していきました。
画面上部には濃い緑色をしたカビの盛り上がりなどがみられたので、この時に外部支援団体の方にできる範囲でカビや汚れを除去していただきました。
その後、乾燥させた作品は燻蒸していきます。

 

修復

修復を担当した株式会社半田九清堂の半田昌規さん、宇和川史彦さんにお話を伺いました。

1.当初の状況
―お預けした当初の作品の状態と施した処置について教えてください。
(宇和川) お預かりした時の状況ですが、 作品の周りに黒いカビが盛っている箇所がありました。(この作品を収蔵庫から)取り出した時にこんもりと生えていたカビはその場で取ってあったので、その痕跡をクリーニングするところから処置が始まりました。その時は本紙がパネルにまだ貼り込んである状態で、パネルからも浮き上がっていたので、パネルから取り外して本紙1枚にして作業を進めました。
本紙の状態は紙の中にまでかなり水が入り込んだ状態で、臭いがあり、(紙の状態が)少しやつれているなという印象でした。ミュージアムで取り出したときも水がじわじわ作品に染み込んだ形で、水の勢いで作品が流されたというような状況ではなかったので、絵の具が水によって流されたとか浮き上がったというような状態ではありませんでしたね。ただ、中にまで汚れは染み込んでいて、まわりからカビが生え始めていたという状況でした。

専用の掃除機によるカビ払いの様子

 

2.カビ払い
(宇和川) お預かりしてからの作業としては、まずカビの除去を行いました。画像は(文化財専用の)掃除機で吸い込みながら、カビの痕跡として残っていたものを取っている作業の様子です。絵の具の中にまで侵食しているカビは、取り除くのは絵具層を傷めてしまう危険があるのでこの時点で処置はしていません。安全に払って取れるようなものを取り除いたということですね。

 

 

粉消しゴムを用いたクリーニングの様子

 

カビ払いに使用した素材―粉消しゴム
(宇和川) それが終わった後は、消しゴムと同じ素材でできている粉末を使いました。市販のものを取り寄せたんですが、これは画面の上に乗っている汚れを取るためのものです。粉消しゴムを撒いて転がすことで表面に乗っている汚れを緩和させることができます。ただ、絵の具が不安定な箇所には出来ませんので、安定しているところに限定して作業しました。

 

 

 

剥落止めの様子

 

3.剥落はくらく止め
(宇和川) (水損が)汚れと同時ににかわにも影響を与えていまして、かなり膠が傷んで粉状化しているところに剥落止めを行いました。膠が切れて絵の具が弱っているところに、膠の水溶液を与えて絵の具の接着力を回復させるという作業です。粉砕した固体の膠を一晩水につけておくと水を含んで膨潤し、それをさらに加熱して水溶液にしたのが膠液です。こちらを絵の具に塗布しました。使った膠は2種類あり、場所によって使い分けています。今回は、主に黒い方の牛の膠(参照:下部画像)を使っています。

                     

剥落止めに使用する素材―膠について
(半田) 今、目の前に置いてある膠はかちかちの固体ですが、一晩水につけるととろとろに溶けてしまうんですよ。膠っていうのは水溶性なものですから、紙と絵の具の間に接着剤としている膠も水の中に何日も浸かっていたら膠が溶けてなくなってしまう。例えば屋外にて保管されるような作品の彩色部分については、膠を使うと雨で流れてしまうので、そういうときは合成樹脂を用いたりします。今回この作品については、屋内の管理された環境に置かれるので膠を使いました。

2種類の膠(左:牛の膠 右:鹿の膠)

―2種類の膠はどのように使い分けているのですか?
(宇和川) 膠の浸透度合いですね。絵の具の状態によって、膠の濃度ですとか材料の使い分けをしています。
(半田) 右側のべっこう飴みたいな明るい色の膠は鹿の角から抽出したものなのですが、表面張力が非常に少なくさらっとしていて、どんどん浸透していくんです。だから奥まで浸透させたいときには鹿の角の膠を使います。しかも接着力がかなり強いんです。
左の京上膠きょうじょうにかわと呼ばれている膠ですが、牛の皮などから作っているものです。こちらは表面張力が多少強いので濃度が高いとあまり染み込まず表面にとどまる性質があります。あと粘度も高いです。
作業をする技術者が染み込ませたい、表面にとどまらせたいなどの加減で使い分けたり、混ぜて使ったりします。 (宇和川) 絵の具にも厚みにそれぞれ差がありますし、(半田)社長が言った通り膠を効かせたいところがあるので、それを使い分けて剥落止めをします。

―≪草薙の剣≫は作品の場所によって膠の抜け具合に違いがありましたか?
(宇和川) 特に大きな差はなかったです。全体的に水に浸かったからでしょうか。
(膠が全体的に溶けてしまっていたので、)作品全体に剥落止めをしてまして、後は個々の状態に合わせて、絵の具の成分や粒の大きさなど膠が受ける影響にも違いが出ますので、場所によって「ここはもうちょっとやらないと」だったり、「ここは鹿の膠にした方がいいんじゃないか」などと判断していました。

霧吹きを使用したウェットクリーニングの様子

 

4.ウェットクリーニング
(宇和川) 剥落止めと並行して部分的なウェットクリーニングを行いました。これまでは乾燥した状態で作業を行ってきましたけれど、次は(湿らせた状態で)絵の具や紙の中にまで染み込んでいる汚れを吸い上げるという作業です。絵の具の状態を安定させながら行っているので部分的に施しました。

 

 

 

乾燥させた布海苔

ウェットクリーニングに使用する素材―布海苔ふのり
(宇和川) ウェットクリーニングについてですが、海藻の布海苔を使っています。こちらは乾燥した布海苔ですが、これに熱を加えて水で煮ていくと液体になります。
布海苔というのは接着剤としての役割もありますが、(油分などの汚れを落とす)界面活性剤の作用がありまして、洗浄剤としても使えます。(この作品における)ウェットクリーニングとは、布海苔を煮て得た布海苔抽出液を、水で薄めて本紙の汚れた箇所に塗布し、浮いてきた汚れを養生紙越しに吸い取り、紙に移し取るという作業です。

(半田) 着物や浴衣の洗い張りって年齢の高い方は自然に覚えていると思いますけど、この布海苔でやるんですね。そうすると繊維の中にある汚れが表面上に浮いてきて取れる。ですから昔から使われてきた安全な素材ですし、作品に対して化学物質の変化がどうなるとか、それが残留してどうなるというような心配がない材料を使っています。
水溶性の素材なので、除去するときも水を含ませれば綺麗に取ることができます。今回の作品の修理には、伝統的に使われている素材を主に使っています。
(宇和川) この洗浄の作業は作品の場所場所で様子を見ながら繰り返し行いました。絵の具と表面で動くような汚れが安定したら次の作業に移りました。

 

ウェットクリーニングに使用する装置―洗浄用の装置
(宇和川) この作品には裏打ち紙がついていましたので、裏打ち紙を1層剥がしました。もし、紙の内部まで汚れが残っているようでしたらそれを取りたいという考えで、装置を作り、上から水をかけまして、下に敷いた吸い取り紙に作品を通して流れ出した汚れを吸着させるという作業でした。

洗浄用の装置

 

―装置というのは?
(宇和川) 今回の修復で地下のガレージに新たに製作したものです。作品は水損して異臭がしたので、他の作品に悪影響を及ぼさないように十分に汚れが取れるまでは地下でカビを払ったり、汚れを落としたりという作業をしていました。今回は作品の状態を考慮し、洗浄の際に水に浸けるというよりは、上からかけた水を染み込ませて下で抜き取るという作業にしました。実際には本紙の上から噴霧器で水を含ませまして、水によって溶けだした汚れを吸い取り紙に吸着させるという形ですね。ある程度汚れを落として臭いがなくなった後に、上階へ持ってきて作業を続けました。

布海苔液で仮裏打ちを行った作品

 

5.仮裏打ち
(宇和川) 洗浄の作業をしましたが、絵の具の安定・安全性とバランスをとっていかなくてはいけないので、思ったほど強く水を与えるということはできませんでした。本紙の汚れの除去が不十分であるので、仮裏打ちという形で本紙の裏に布海苔を用いて裏打ちをしました。
これも布海苔の界面活性剤としての役割で汚れを浮かせるという作用と接着剤としての作用を利用したものです。また、水で動く汚れというのは乾く方面に引っ張られます。画面を伏せて乾かしている時に上方向に水が蒸発していくので、汚れは画面の裏打ち側に集まります。汚れを吸った裏打ち紙を乾燥後に剥がすことで本紙の汚れを除去するクリーニング方法です。

 

6.新規裏打ち
(宇和川) ウェットクリーニングが済んだ作品には新たに裏打ちを施しました。小麦澱粉糊こむぎでんぷんのりを用いて、本紙の裏に裏打ちをしています。薄美濃紙とこうぞ紙の2回の裏打ちを行うことで、本紙を強化しています。

 

7.新たな発見
(宇和川) 作品をお預かりしてこういった処置を行なっていく中で、実はこの作品は金箔を貼った紙の上にもう一枚紙を重ねて制作されていて、3層(紙、金箔、紙)構造になっていることがわかりました。
やはり、水に浸かっていた影響で箔を貼った紙と絵が描かれた紙の間に少し浮きが見られました。そういうところの処置が今回は特に難しかったところだと思います。湿りを与えまして、浮きが生じたところには膠や布海苔を流し込む形で処置し、(浮きを)接着することができました。

―金箔が水に触れたことで今後影響が出て来るということはあるのでしょうか?
(半田) これは「金」だからよかったですね。これが銀とか他のものだと、恐らく水の中に含まれる化学物質で変色が起きていたと思います。金は純金になればなるほど変化がない、それもあって値段も高くなるわけですが。

(指差し部分が)2層目の金箔


(宇和川) 使われている金泥や金箔には変化がみられなかったですし、剣の部分に使われている絵の具にも変化がなかったので、おそらくこの(剣の)部分にはプラチナが使われているのかなと思います。これがもし銀だったら黒に変色したり、水が硫黄成分を含んでいたら玉虫色に緑がかったり青みがかったり変色しますので、そのようなことがなくてよかったです。今回のことで、使われている素材についても分かったということですね。

―3層目の紙は2層目の金箔が透けるくらい薄いものなんですか?
(宇和川) そうですね。この部分を見ていただければお分かりいただけるかと思うのですが、金箔がこういう形で透けて見えているんです。

この辺りの色は薄い紙を通して裏の金箔が影響を与えているんだと思います。茶色っぽく見えるけど実は(2層目の)金の影響があります。

丸部分の色彩は2層目の金の影響がある

―(被災前の)この作品は写真を撮るのが難しくて、照明によって画面の色が変わってしまっていたんです。
(半田) それはまさしく、この金がどう反射するかで写り方が変わってしまったんだと思います。照明の光の当て方によって、金に反射して色が変わるのでしょうね。
(宇和川)この作品は深みのある表現でどういう色づかいなんだろうと思っていたんですが、実は(2層目の)金箔が透けて見えていたということのようですね。3層目の紙にも細かな金箔が蒔かれているのでそれによっても見え方が変わるのでしょう。

 

8.現在の様子
(宇和川) 現在、カビ払いや剥落止め、ウェットクリーニング、新規の裏打ちが終わり、このあとに細かなところの点検をして、本紙裏打ちの周囲を綺麗に化粧断ちという断裁をして完成となります。
剥落止めして絵の具に膠を補って接着力を回復させると、かなり色の方も発色しまして、絵に力が戻ってくるのを感じますね。
(半田) おそらく制作されてから被災するまでも接着剤の膠が経年劣化をしていくわけですよね。そうすると、なんとなく絵の具って粉っぽく白味がかったようになっていくものも種類によってはあるんですよ。そういったものが今回また改めて膠を浸透させて再接着させたことで、描かれた当初の深みというかそのようなものが出てきているのは確かです。

―今回の処置のなかで大変だったことがあれば教えてください。
(宇和川) 本当に大変だったのは、中にまで入っている汚れをとりながら、いかに絵の具を安定させていくかというところですね。やはり、普通に伝世しているものとは違う傷み方をしているので、絵の具の安全を確かめながら汚れを少しでも取ろうというせめぎ合いが今回の修復の中で1番苦労したところです。

―ありがとうございました。

 

【おわりに】

現在、≪草薙の剣≫は修復を終えて、適切な保存環境の外部倉庫にて保管・管理をしています。まずは、ここまで作品の応急処置や修復に携わっていただいた関係者の皆様、そして収蔵品の様子を気にかけてくださっている市民の皆様にお礼を申し上げます。
レスキュー活動の様子や収蔵品については引き続き公式HPでご紹介していきますので、今後とも「川崎市市民ミュージアム被災収蔵品レスキューの記録」にご注目ください。

修復後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆プロフィール紹介

半田 昌規 氏

 

1985年 3月       多摩美術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業
1985年 4月       半田九清堂入社
2003年 6月~      株式会社半田九清堂 代表取締役
2005年 4月~2013年6月 国宝修理装潢師連盟 常務理事
2006年 4月~2020年3月 東京藝術大学大学院 文化財保存学 非常勤講師
2008年12月~       世界紙文化遺産支援財団・紙守 理事
2013年 7月~      国宝修理装潢師連盟 副理事長
2014年 6月~      広島市立大学芸術学部日本画学科非常勤講師
2016年 7月~      女子美術大学日本画学科非常勤講師

 

宇和川 史彦 氏

 

2001年 3月      東京藝術大学大学院美術研究科
            文化財保存学保存修復日本画修了
2001年 4月      株式会社半田九清堂入社
2019年 4月      国宝修理装潢師連盟文化財修理技術者資格
            絵画Ⅰ類 技師長 取得

 

 

 

 

【インタビューについて】
取材日:2021年8月23日
取材場所:株式会社半田九清堂
取材者:佐藤美子、安尾祥子