2016年10月13日

現地見学研修『二ヶ領用水を歩く』(コース① 登戸~溝口)に参加して

9月17日(土)午前9時JR登戸駅コンコースに集合。参加者はボランティア11名、職員1名でした。ボランティアである案内人の青木さんよりコース①資料が手交されました。「二ヶ領用水は、江戸時代に完成した人工農業用水です。現在は、その役目を終え、用水路沿いには桜や桃が植えられ、環境用水として市民の憩いの場に生まれ変わっています。江戸時代から昭和初めごろまでの風景との違いを思い浮かべながら、歴史ポイントを見学し、散策してください。」とのお話がありました。

 

現地見学研修『二ヶ領用水を歩く』
 

 

今回の見学は、登戸→宿河原→川崎市緑化センター→久地合流点→横手堀→分量樋跡→円筒分水→大石橋→溝口までのルートです。
私は、「いのちの水・二ヶ領用水~今も残る水が果たした歴史的町並み景観」をテーマとし、ストーリーとして、「二ヶ領用水は多摩川下流域の新田開発を目的に開削された。江戸や川崎の発展を支えた南関東最古の人工農業用水であった。その用水は、明治初期には横浜にあった外国人居住地の上水道として飲み水にも利用され、正に人々の命の水であった。この用水は川崎地域の工業化・都市化の進展に寄与してきたが、現在では桜や桃の木が植えられ、水中には鯉が泳ぎ、環境用水として市民に愛されている。」という視点で見学しました。

 

宿河原堰に向かう途中、吉澤石材店を通りました。数年前にミュージアム学芸員望月氏の案内で見学した、伊勢原市内所在糟屋山神宮寺の文道玄宋によって天保9年(1838)に造建された多宝塔銘文に、武州橘樹郡稲毛領登戸石工吉澤藤三郎光信と刻まれていたのを思い出しました。
寛政4年(1792)アダム・ラクスマン中尉を団長としたロシア帝国の遣日修交使節団の一行は、伊勢白子の漂民大黒屋光太夫を案内人として蝦夷地子諸(根室)に上陸し日本に通商を求めました(1853年ペリー浦賀来航前)。

 

この当時、文道玄宋が吉澤氏を選んだのは何故でしょうか?表情の固い高遠の石工のものより、柔軟な表情をもつ藤三郎の作風に引かれたのかもしれません。東蝦夷の国泰寺へ赴任や任期を終え相模神宮寺へ帰山の際、この登戸の渡しを通っている筈です。遠隔地の蝦夷地へ渡る巡教の僧、文道和尚に、吉澤藤三郎が畏敬の思いで持て成したのでしょう。さて、皆さんの想いは…?
なお、多宝塔は残念ですが東日本大震災の影響で大きく崩れてしまいました。

 

JR南武線を渡り、堤上に登ると眼前に多摩川の流れや河川敷が一望できました。いつ完成したのかグラウンドで子供たちが楽しんでいました。変貌している景観にときの流れを感じました。登戸の渡し場所にコンクリート柱があり、海から23kmとあるのを視認。一方、宿河原取水口付近の堤上の新しいコンクリート柱には「国22.6km」とあるのを確認。
川崎市港湾局による「海から」の原点を調査したところ、明治時代に新田が作られ、造成計画により埋め立が進められ、昭和34年から50年にかけて小島町・浮島町などの埋め立地が完成しました。この小島新田と浮島との間、浮島側の多摩川右岸の0メートル地点に、原点標識を設置しているようです。一度視認する機会があれは…と思います。

 

多摩川の流れや河川敷
 

 

多摩川の流れや河川敷
 

 

多摩川の流れや河川敷
 

 

続いて、久地円筒分水を見学し、円筒分水の意味と価値を考えてみました。なぜ、円筒分水は人々の心を引き付けるのでしょうか…?
円筒分水があの位置に所在する意味、多摩川と丘陵との成り立ち、平瀬川の水害との関わりなどを結び付けているからでしょう。多摩川下流域地域を流れる二ヶ領用水は地勢上の要衝に設置しているようです。
一方、近年の国土交通省の防災計画(ハザードマップ)に基づいて川崎市ではハザードマップを見直し中とのこと。平瀬川と円筒分水の景観はどのようになるのでしょうか…?
平瀬川は時間雨量50㎜降雨時130m2対応として改修が進められ、気候変動により時間雨量90㎜降雨時230m2対応として計画されているようです。

 

大石橋付近
 

 

最後に大石橋付近を見学しました。この場所は、文政4年(1821)の溝口水騒動の現場で、名主を兼ねた丸屋・鈴木七衛門の屋敷跡との案内板が設置してありました。江戸時代から昭和初期の面影や景観は全くなくなっていますが、周辺では当時の二ヶ領用水の流路に沿って建てられた家屋を見ることができて感無量でした。

 

さて、『我田引水』の語源について調べてみました。広辞苑では「わが田に水を引く」です。江戸時代頃に生まれた和製漢語のようです。「自分の利益になるように考えたり、したりすること。」、「自分勝手」、「わが田に水を引く」、などの解説があります。
「今日の急務は國會よりも、政党内閣よりも、宗教よりも、教育よりも、まず牧畜であって、愛國者は即ち牧畜家、牧畜家即ち救世主と云う様な夥しい我田引水説を唱へ」と出てきています。これらが初見のようです。

 

二ヶ領用水が開削された当時は、既存の水田への安定的な用水が供給されることになり、人々は安定した生活が送れるようになったのでしょうか?
江戸幕府にとっては検地を実施し、水田開発によって租税(年貢)の徴収を高めることが一つの政策ではなかったのか! など想いを馳せました。

 

二ヶ領用水に関しては文献史料等は少なく未解明部分は多いようです。
新たな資料が発見されることを期待し、私たちには歴史的景観をどう継代するのかが、課題のようです。
今回の現地見学研修では、新たなメンバーとの交流もあり有意義な時間を過ごすことができました。関係者の皆様に感謝また感謝です。

 

(スクールプログラムサポートグループ 前林)

 

*2014年3月までのボランティア活動の様子は、こちらでご覧いただけます。

http://ameblo.jp/kawasakimuseum2010/