2015年12月15日

現地見学研修『二ヶ領用水を歩く(2)』

7月4日(土)に実施した現地見学研修「二ヶ領用水を歩く」の第1回目「登戸~溝の口」に引き続き、
今回はその上流域である「上河原堰から登戸」までのコースで現地見学研修は実施されました。晴天無風の天候に恵まれた11月21日(土)、13名(ボランティア12名・職員1名)が参加しました。
稲田堤駅に午前9時集合。
点呼~名札が配布され、近藤さん提供の地図4枚と青木さん作成の研修用資料を基に、案内人青木さんから本日の行程について簡単な説明があり、その後出発しました。

 

本日の行程について簡単な説明

 

本日の行程は以下のとおり。
「観光道」~「上河原堰」~「菅の渡し跡」~「稲田水源地/水道用さく井」~「上河原取水樋門」~「新三沢川との交差点」~「ふだっこ橋/筏道」~「布田・中野島の草堰」~「大丸用水跡」~「三沢橋」~「護岸」~「橋本橋・道標」~「一本圦樋堰/紺屋前堰」~「台和橋・小泉次大夫のレリーフ」~「登戸付近紙漉き」~「榎戸橋(小泉橋)」~「榎戸堰(洗堰)」~「庚申塚」~「五反田川との合流点、五ケ村堀」~向ヶ丘遊園駅までの約4.5Km、3時間余りの現地見学研修。

 

行程に沿っていくつかの話題を感じたままに記しました。
二ヶ領用水は、約400年前に建設された用水環境であり、当時の苦労を偲ぶにはあまりにも変化が大きい地域でありましたが、少しでも往時の状況を感じとる視点で歩き始めました。当時、地域は水田農村であり天候と水で生活が左右されていました。従って、この用水が地域に安定且つ配水されることが望まれていました。水源は偉大な暴れ川として名高い“多摩川”であり、供給先各所への分配に苦労したと叫んでいるようでした。

 

府中街道から多摩川堤までの稲田堤駅前の通りを「観光道」といいます。当時多摩川での川遊びや最盛期には2,000本と言われた桜を目当てに大勢の観光客が利用したので「観光道」と呼ばれ、今もその名を残しています。
また、二ヶ領用水水域では、多くの立派な樹齢を誇る桜が活きて、春には素晴らしい花を周辺住民に提供し、秋には梨が収穫されています。(注;川崎の梨で著名な「長十郎梨」は大師河原が発祥です。)
見学時は11月で、桜は紅い葉で、梨は収穫後だったので楽しみは半分でしたが、水域の貴重な財産です。

 

上河原取水口の前に「上河原堰」があります。コンクリート製の堰は、昭和16年に平賀栄治が苦心されたもので、大雨対策も付加されています。昭和46年に現在の堤防になりました。創設当時には竹籠に砂利を詰めた「蛇籠」と間伐材と自然石を使った水制装置の“木工沈床”を利用した堰堤でした。

 

上河原堰

 

現在、堰の端には魚道も整備され鮎など魚類の遡上率も向上していると聞きます。自然と共生していこうという心の賜物です。(自然を護る精神は稲田堤公園にある「お魚ポスト」にも見られました。飼っていた外来種の魚類等を多摩川や水路に投棄し、在来種の保存に影響させない取り組みの一環です。中には育って1m位になった魚類も泳いでいました。活動している方々の尽力に感謝です。)

 

二ヶ領用水は、この区域では四つの河川と交叉・合流しています。三沢川・旧三沢川・山下川・五反田川です。この他に大丸用水跡にも出会えます。それぞれに交叉・合流の特色もあり興味を持ちます。
この多量の用水は、多くの堰を経て近隣の農家に届きます。地域の大動脈であったと思うと感謝の合掌をしたくなりました。

 

水量を調整し各所に分配する為に、要所、要所に堰が造られています。分配された水路を“堀”と名付けていました。
現在の中野島中学校前にある「ふだっこ橋」の下流には「布田堰」があります。

 

「草堰」

 

当時の土木技術の知恵と思われる直径10cm以上の丸太を互い違いに打ち込み、水量をコントロールさせ、その堰の近くに取水口を作っています。木杭に小枝を絡ませ草で覆われるので「草堰」と呼ばれますが「乱杭堰」ともいうそうです。(二列並びなど並びの悪い歯を「乱杭歯」と言っていたのを思い出しました。まさにピッタリの表現と感心しました。)
布田にある堰から取水しているのが「新田掘」、中野島の堰からが「河原堀」と細やかに対応していました。

 

また、この付近では用水を護り景観を良くする為に種々の護岸工事がなされていました。「板柵護岸」「竹柵護岸」「石組護岸」など特徴を生かした整備がされており、しばし眺めてしまいました。

 

近年、下流の市街化地域では、潤いのある景観形成のために多くの対策が施され、市民の憩いの場として親しまれています。当時も今も水辺に潤いの場所を求めていたのだなー、と感じました。

 

「橋本橋」

 

「橋本橋」は交通の要所でした。橋の一角に昭和3年に建立された「道標」がありました。行き先は三面に記され、“調布村方面”“柿生村方面”“高津方面”の文字が読めました。
翌年には南武鉄道線の川崎~立川が全開通しましたが、地域にとっては大切な道標だったのでしょう。

 

行程後半には興味を持った名称がありました。それは当時の産業を示した跡です。それらの一つは“紺屋前堰”で、もう一つは“紙漉き”です。ともに繊維産業を支えた技術ですが、ともにきれいで且つ豊富な水流が必要です。この要求に応えられたのも、二ヶ領用水が大きく貢献していたのでしょう。往時の作業者が水流を大切にして働いていた情景を想い浮かべてみました。

 

以上の様な素晴らしい用水を歩けたことを先人たちに感謝して、今日の研修を終了しました。

 

(博物館部門展示ガイドグループ 島谷)

 

*2014年3月までのボランティア活動の様子は、こちらでご覧いただけます。

http://ameblo.jp/kawasakimuseum2010/