2015年07月26日

二ヶ領用水を歩く(登戸~溝口)

平成27年7月4日(土)ボランティア現地見学研修「二ヶ領用水をじっくり歩く」シリーズの今年度第1回が実施されました。
今回は登戸→宿河原堰→緑化センター→久地合流点→横土手→分量樋跡→円筒分水→大石橋→溝口までの約7㎞の行程です。
前日から朝方まで雨が降り続き実施が危ぶまれたのですが、集合時間には雨は上がり、この季節の散策にはちょうど良い曇り空のもと、職員3名、ボランティア16名、総勢19名の参加者はJR南武線登戸駅を出発しました。

 

最初の見学ポイントは多摩川に設けられた「宿河原堰」です。 多摩川の水を二ヶ領用水に取り入れるために設けられた堰は、洪水時に流れる水を阻まないよう可動する水門を設け、さらに魚が遡上しやすいように魚道も設置されています。この日は雨上がりで水量が多く、轟々と堰の上を越えて流れる様子は迫力満点でした。

 

「宿河原堰」
「宿河原堰」

 

古くは、小石を竹で編んだ籠に詰め、それを幾つも積み上げて築かれた蛇籠堰でした。昭和24年には近代的なコンクリート造の固定堰になりました。しかし、昭和49年16号台風の影響で水量が増した多摩川は激流となり、この堰に阻まれて狛江市側の堤防を破壊し、民家19戸が流されるという大災害「狛江水害」が起こりました。この災害を教訓に現在の可動堰に生まれ変わりました。

 

二ヶ領用水の取り入れ口から2キロも続く長い桜並木は、ボランティアによって管理され、市民の憩いの場になっています。
満開の桜のトンネルを想像し、すがすがしい緑と水の流れを楽しみながら歩きました。

 

2キロも続く長い桜並木
2キロも続く長い桜並木

 

四季の山野草や樹木が植えられた緑化センターでは、二ヶ領用水と五ヶ村堰(水路)が立体交差する、珍しい「掛渡井」が見られます。

 

上河原堰と宿河原堰から取り入れられた二つの用水路の合流点から、さらに下流へと進むと、「分量樋跡」と書かれた石碑が建っています。

 

「分量樋跡」
「分量樋跡」

 

江戸時代初めに完成した二ヶ領用水は、100年あまり経ち水路の傷みがひどくなったことから、全面改修が行われ、この時、分量樋も設けられました。それは、灌漑面積に応じた水路幅を決め、4本の用水堀に分水する装置でした。しかし、川の流れは中ほどの流れが速く岸に近いところはゆるやかに流れます。水量が少なくなると正確に配水することができませんでした。日照りが続き用水の水が不足すると、上流と下流の村が対立し、しばしば水争いが起こったそうです。
文政4年には「上流より水不足が深刻な下流の川崎領へ水を流す」という取り決めをしたにもかかわらず、逆に川崎堀の樋を筵で塞ぎ止め、溝口村方面へ流れるようにしていたことがきっかけとなり、二ヶ領用水史上最大の事件「溝口水騒動」が発生しました。正に「我田引水」とはこのことですね。

 

分量樋に代わり昭和16年に造られた「円筒分水」は大小の円が二重になっていて、噴水池のように見えますが、実は近代的な分水装置なのです。二ヶ領用水の水が平瀬川の下を交差させたコンクリート管に流れるようにし、サイフォンのような原理を利用して中央の円筒に噴き上がる仕組みです。外側の円筒の周りには灌漑面積に応じた比率で仕切りが設けてあり、溢れ出る水は平等に配水されるのです。

 

「円筒分水」
「円筒分水」

 

平瀬川は津田山の麓のトンネルから流れて来ています。資料の地図を見ると大正期と昭和の初めの地図にはトンネルがありません。それに対して昭和30年の地図にはしっかりとトンネルが描かれています。以前の平瀬川は溝口方面へ流れ、二ヶ領用水に流れ込んでいました。溝口周辺は平瀬川の氾濫で、度々被害を受けていました。それを解消するため、トンネルを掘り直接多摩川に流す瀬替えが行われ、以来洪水は起こらなくなったそうです。

 

二ヶ領用水と大山街道との交差点にある大石橋を渡り、12時半ごろ、全員無事JR南武線溝口駅前に到着し、解散となりました。 この研修で、水の確保と公平な水の分配方法を模索し、水害に立ち向かい乗り越えてきた人々の努力と強い思いを感じ取ることができました。

 

青木さん、詳細な資料の提供と、分かり易い説明をしていただき、ありがとうございました。 近藤さん、河川や用水の変化が分かる地図を用意して下さり、ありがとうございました。

 

(博物館部門展示ガイド 田中恵子)

 

*2014年3月までのボランティア活動の様子は、こちらでご覧いただけます。

http://ameblo.jp/kawasakimuseum2010/