第3章 六郷橋の開通と渡船の終焉
3-1 左内橋開通と六郷渡船

 明治7年(1874)1月21日、約180年ぶりに六郷川へ橋が架かりました。この日は平間寺(川崎大師)の初大師の日であり、多くの参詣人の往来を見込んで日程を決めたとされています。俗に「左内橋」と称され、52か月半の間、渡橋賃の徴収が許可されました。
 史料21は、左内橋の渡橋賃を記した定めの写しです。渡橋賃の後ろには定めの英訳が記されています。これは、安政5年(1858)の日米修好通商条約の締結により、外国人遊歩区域(来日外国人が自由に活動できる範囲)が定められたことが関係していると考えられます。本規定により、一般の外国人は遊歩区域外には出られず、東の境界は多摩川とされました。しかし、研究や療養を目的とした場合に限り区域外に出ることができたため、多摩川を渡る外国人に向けた英文表記が必要となったと推測されます。

21)定(六郷川橋渡橋銭規定)
明治7年(1874)1月
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)

左内橋の渡橋賃を記した定めの写し。
渡橋賃は一人3厘、人力車1輛1銭(車夫とも)、
馬1頭1銭(口引とも)、馬車1輛6銭2厘(馭者ぎょしゃとも)となっている。
英文に慣れていないようで、綴りには誤りがある。

22)証(水夫離業扶補金受取)
明治7年(1874)1月21日
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)

「仮橋入費高上り取揚見積帳」(史料17)に記載された通り、
離業補償金が水主に支払われた。本史料はその受取証である。

 一方、左内橋開通と同じ日、これまで渡船業務に従事してきた水主頭4名・水主24名は鈴木左内から離業補償金として合計250円を受け取りました。また、左内橋開通後の渡船については、史料21に次のように記載されています。

右ハ明治五壬申年中八幡塚村鈴木左内ト申もの当所六郷川渡船場へ架橋致度旨願済之上明治六癸酉年ニ至テ土橋出来、ママ年一月廿一日ゟ士民共渡橋銭取之、依テ渡船ハ官ゟ御差止無之候得共乗船更ニ無之ニ付今日限止ル、
(明治5年、八幡塚村の鈴木左内が六郷川渡船場へ架橋を願い出て、同6年に完成した。同年(※明治7年の誤り)1月21日より渡船賃を徴収する。渡船は県庁より差し止められていないものの、乗船者がいないため、今日を限りに止める。)

 橋という渡河手段が増えた結果、渡船利用者がいなくなり、約180年続いた六郷渡船は終焉を迎えました。

3-2 「金喰い橋」左内橋の運営

 左内橋の運営で重要なことは、橋の維持管理と工費償却のための渡船賃徴収です。渡船賃の徴収は取立人が橋会所にて行いますが、取立人が遵守すべき事項については「橋会所規則之証」(史料23)で定められていました。
 一方、橋の維持管理についてですが、左内橋は「金喰い橋」と称されるほど多摩川の氾濫から破損・落橋が続き、修繕の繰り返しとなりました。明治8年(1875)・同9年には一部破損したものの往来は継続され、修繕が行われます。しかし、明治10年7月には橋板二間ふたまが落橋したため往来ができなくなりました。「六郷橋落橋一見書付」(史料24)によると、急遽「渡船ニテ便用」したと記載されています。渡船については川崎駅が営業権を持っているため、川崎駅でその差配を行ったと考えられます。しかし、その期間は短く、落橋部分半面(1間半)の所に仮杭を打って仮橋を設置したため、翌27日より橋の通行が再開されました。

23)橋会所規則之証(部分)
明治7年(1874)3月17日
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)

本史料は渡橋賃取立人から鈴木左内・芳井佐右衛門へ提出された証書。
渡橋賃取立人が遵守すべき10項目が書き上げられており、左内橋運営の一端を窺い知ることができる。

24)六郷橋落橋一件書付(部分)
明治10年(1877)7月
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)

明治10年7月26日の暴風雨により八幡塚村側の橋台付近二間ふたまが落橋し、
往来ができなくなった。往来制限について東京府とのやり取りが書かれている。

 特に、破損・落橋時で問題となるのは修繕費でした。明治8年8月の最初の破損の際、東京府は「今般限特別之訳」として修繕費分の償却期間延引を認めましたが、以降は認めず、鈴木左内は負債を抱えることとなります。「六郷川架橋営繕費延月願」(史料25)によると、今回の落橋による修繕には371円55銭3厘かかり、明治9年の修繕費381円33銭7厘を合わせ、11か月5日の償却期間延引が必要となりました。

25)六郷川架橋営繕費延月願(部分)
明治10年(1877)7月
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)

 そのため、改めて償却期間の延引を求めており、史料25では「営繕費用消却方向無之、当今疲弊之私共必至窮迫(営繕費用償却の方法がなく、現在疲弊している我々が窮迫することは必至)」と窮状を述べています。また、下記のように渡船の欠点を挙げることで橋の維持を訴えますが、要望が聞き届けられることはありませんでした。左内橋の維持には、償却されることのない修繕費の積み重ねが必要だったのです。

(前略)船川岸往返間船待中衆人迷惑之筋モ有之、大水之際ニハ渡船停止通行便用差支、且夜分ハ渡守わたしもり持ニテ急用等之節ハ相対トハながら申急緩之区々ナリ船主適宜則外之賃金取立候様之弊習有之、往来衆人之あまね妨碍ぼうげ迷惑不堪歎ヶ敷(中略)、牛馬車等之渡船相成兼いずれモ迷惑致し候(中略)、廃橋候テハ自然従前渡船之姿ニ立戻り前条船待且往来衆人不弁利ニテ一旦同志之素懐そかいモ貫徹不仕遺憾難堪奉存候、(後略)
(渡船は川岸を往復する間、待つ人が迷惑することもある。洪水の際は渡船停止となって通行に差し支える。さらに夜分は水主を待ち、急用等の時は双方合意の上とはいえ規則外の賃金を取る悪い風習が残っており、往来する人々は迷惑している。また、牛馬車などの渡船はできない。廃橋となったら渡船に戻って不便であり、我々の願いも叶わず誠に遺憾である。)

3-3 六郷渡船の復活と再廃止

 身代が傾くほどの出費を重ねても橋を維持した鈴木左内でしたが、開通から4年後の明治11年(1878)9月、再度の氾濫により、ついに橋が流失します。償却期間終了まで3か月ほど猶予があったため再び架橋を試みますが、その後、鈴木左内によって橋が架け直されることはありませんでした。
 一方、橋の流失により、再び六郷渡船が復活します。「渡船上り高并諸入費取調明細簿」(史料26)には「明治十一年九月十五日夜大水ニ而六郷橋流失ニ付、同十八日ヨリ総代人一同出張渡船相開」とあり、流失から3日後の9月18日から渡船を再開したことが分かります。再開後の渡船賃については明治12年(1879)11月の高札が遺っており、江戸時代に見られなかった馬車の賃銭についても記載されるようになりました(史料27)。

26)渡船上り高并諸入費取調明細簿(部分)
明治11年~14年(1878~1881)
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)

27)高札(六郷川渡船賃銭額ニ付)
明治12年(1879)11月
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)

馬車の渡船については、渡船再開直後から行っていたかは定かではない。
明治12年9月・10月の入費書上げ(史料27)に「新規馬車船打立料」と記載されており、
この際開始した可能性も考えられる。

 また、六郷橋再架橋に向けた動きもあり、明治13年(1880)8月、八幡塚村は東京府へ架橋の出願をしています。「橋梁架設ノ願」(史料28)によると、同時期に川崎駅でも有志の者で架橋が検討されており、東京府からは八幡塚村・川崎駅の共同出資で架橋するよう指示がありました。これを受けて話し合いが行われた結果、明治15年(1882)2月には八幡塚村戸長武澤彦太郎ほか7名、川崎駅有志者石井泰助ほか5名によって架橋に関する条約書が取り交され(大田区立郷土博物館蔵 石川家文書「六郷川架橋ニ係ル條約書」)、3月2日に六郷川架橋の願書が提出されました(史料29)。願書には「左内橋落橋以来、不便の極みである渡船に戻り、皆が嘆いている。そのため、堅牢な橋梁を共同で設置することとした」と記されています。永く渡船運営を担ってきた川崎駅でしたが、ここで渡船から橋へと運営対象が広げられました。本出願は同年7月17日に東京府知事および神奈川県令より許可が下り、工費償却のため25年4か月の渡橋賃徴収が認められます。

28)橋梁架設ノ願(写)
明治14年(1881)6月24日
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)

29)六郷川架橋願(部分)
明治15年(1882)3月2日
大田区立郷土博物館蔵(石川家文書)

 明治16年(1883)2月8日、八幡塚村と川崎駅共同出資による橋が六郷川に架けられます。この橋の名称については「六郷橋」と「多摩川橋」で八幡塚村・川崎駅で意見が割れましたが、最終的には神奈川県令・東京府知事によって「六郷橋」と定められました(大田区立郷土博物館蔵 石川家文書「六郷川架橋芥除杭ヲ廃シ控杭取設及橋名願」)。
 なお、この六郷橋開通を受け、復活した六郷渡船は再び営業の危機に瀕することとなり、水主28名から川崎駅戸長へ渡船業務の継続を申請しています。

30)証書(渡船貸与ニ付連印証書)(部分)
明治16年(1883)2月22日
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)

31)多摩川渡船之儀ニ付伺
明治16年(1883)3月10日
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)

六郷橋落橋時の渡船営業権について砂子町戸長根本節之助から確認した伺い。
旧慣に従い川崎駅が担うことが神奈川県令より認められた。

 史料30によると、水主らの言い分は「乗船スル者雖少シト、矢張従前仕来候職業之外取続方更ニ無之、乍然船無之候テハ越立方相成不申、依テ是迄相用候渡船五艘之内弐艘幷渡船名目共無銭ニテ私共エ御貸与被下(乗船者が少なくとも、これまで続けてきた職業以外はない。しかし、船がなくては成り立たないため、渡船2艘と渡船の名目を無料で貸与してほしい。)」というものでした。この要望は聞き届けられますが、実際の渡船営業については記録が遺っておらず、その実態は不明です。ただし、史料30の「証書」が作成された日から間もない3月10日、新たに渡船についての伺いが砂子町戸長根本節之助から神奈川県令に提出されています(史料31)。ここには「過月初旬ニ至ル迄渡船致シ来候処今回廃停、右ハ之ニ変ルノ架橋落成両設相成ラザル所以ト思考仕候(先月初旬まで渡船をしていたが、今回廃止した。渡船に替わる橋が落成し、両者は両立しないものと考えらえる。)」と記されており、六郷橋開通後も渡船営業を試みたものの、乗船者はおらず、廃止するに至ったと推察されます。