明治16年(1883)に再び廃止された六郷渡船ですが、同18年(1885)7月2日に六郷橋が流失したため、翌日から営業を再開します(史料32)。この再復活は六郷橋の修繕が終わる翌19年まで続いたと考えられます。
その後、六郷橋は明治30年(1897)5月4日の洪水でも流失し、6日から渡船が開始されました。前回の渡船営業から約11年が経過しており、明治16年時点で28名いた水主は、この時「有志者」7名と記録されています(史料33)。橋を主な渡河手段とする明治の六郷川において、渡船は橋の破損・流失時の臨時措置としてのみ営業を認められたため、渡船場に生きる水主は廃業、または他の渡船場へ移動するなどした可能性があります。六郷渡船に関する記録は、これより先確認できず、その後の開設の有無については定かではありません。
32)六郷川渡船賃銭之儀ニ付上願(部分)
明治18年(1885)7月10日
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
六郷橋流失に伴い、7月3日10時より仮渡船を開始する。
6日に渡船賃徴収を申請し、10日に神奈川県令より許可を受けた。
この時用いた高札が現在市民ミュージアムに遺っている。
33)六郷川渡船開設願
明治30年(1897)5月6日
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
渡船は川崎町久根崎河岸共同物揚場から六郷村大字八幡塚共同物揚場を往復した。
神奈川県知事より、今回の渡船は六郷橋修繕落成までと期限が定められた。
明治33年(1900)7月、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が品川までの路線延長のため、六郷橋を買い取りました。しかし、電車が通過するには脆弱であったことから計画を変更し、六郷橋に並行して鉄道用の木橋が架けられます。その後、同36年(1903)8月より六郷橋は無料で渡橋可能となり、同39年(1906)12月に政府へ献納されました。以降、六郷橋は2度流失し、水害に耐えうる橋の設置が期待されます。
そして今から100年前の大正14年(1925)8月、東京府と神奈川県によって長さ446m、幅16.4mの鉄筋コンクリート造の六郷橋が架けられました。これを皮切りに、多摩川下流域に本格的な道路橋が架けられていきます。