慶応3年(1867)10月の大政奉還により江戸幕府は終焉を迎えますが、その後も六郷渡船は継続され、貨客の輸送を行いました。しかし、明治新政府による近代化推進に伴い、川崎宿および渡船場は大きな転換を迎えることとなります。
幕末から検討されていた鉄道建設計画は明治に入って本格化し、明治2年(1869)11月に新橋-横浜間の敷設が決定します。同3年10月に着工し、工事は多摩川を境界として東西両側から進められました。その後、同4年8月に試運転が開始され、翌年9月12日に新橋-横浜間全線が正式に開通しました。
この文明開化の象徴ともいえる鉄道の敷設は注目を集め、錦絵にも多く描かれました。「六郷川蒸気車往返之全図」(史料11)は多摩川左岸(八幡塚村)から川崎側を眺めた風景で、上流には鉄道橋を通過する近代的な蒸気機関車を、下流には前近代的な渡船を配置し、新旧渡河手段を対照的に描いています。また、明治初年に開業した乗合馬車や人力車も見られ、本図からは渡船場周辺における時代の変化を窺い知ることができます。
11)歌川広重(三代) 六郷川蒸気車往返之全図
明治4年(1871)
大田区立郷土博物館蔵
右岸(錦絵左部)に賑やかな様子の川崎宿が描かれ、「御用」の幟がたつ会所には旅人と会所役人の姿が確認できる。
また、上流の鉄道橋には橋梁の左端に「工」の文字の旗が見える。これは鉄道敷設を担った工部省の旗章であった。
12)六郷川鉄道橋
(明治4~10年・1871~1877)
大田区立郷土博物館蔵
明治4年(1871)に完成した六郷川鉄道橋は新橋-横浜間で造られた橋梁中最長のもので、
本橋と避溢橋(出水時に水の逃げ道をつくるために架けられた橋)を合わせると343間(約624m)あった。
写真は本橋部分を撮影したもの。当初は木造であったため腐朽が激しく、明治10年(1877)に鉄製の橋梁に架け替えられた。
鉄道の開通は人々の流れを変え、川崎宿および六郷渡船に大きな影響を与えます。明治5年(1872)に開業した川崎停車場は川崎宿のほど近くに設けられたため(史料13)、川崎周辺への移動には渡船ではなく鉄道を利用する人が増えました。
この移動手段の変化が顕著に現れたのが平間寺(川崎大師)への参詣です。毎月21日は平間寺の縁日のため、多くの参詣者が訪れました。鉄道開業前は江戸(東京)の市街地から渡船を利用し、川崎宿で食事・宿泊をする旅客が多くいましたが、開業後は参詣者の大半が鉄道を利用した日帰り客となり、宿場および渡船の利用者が急激に減少します。文明開化の象徴である鉄道の開通は、川崎宿および六郷渡船の収入に打撃を与えることとなりました。
13)川崎駅全体之図(部分)
明治7年(1874)頃
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
明治7年頃(1874)の川崎宿の街割りを描いたもので、
鉄道が川崎宿に並行して伸びていることが分かる。
鉄道の敷設と同じ頃、渡船運営を左右する別の動きもありました。明治4年(1871)10月、八幡塚村の名主鈴木左内が品川県に対し、六郷川への仮橋架橋を出願したのです。この当時、八幡塚村は品川県の管轄であり、出願の翌月に架橋の許可が出ました。
「六郷橋架橋計画図」(史料14)によると、鉄道橋の下流に描かれた仮橋は長さ60間(約108m)、幅3間(約5.4m)、橋の袂は水面から高さ1丈2尺(約3.6m)となっています。また、「六郷川仮橋履歴」(史料15)には、鈴木左内は「八幡塚村[八幡塚村ヲ里俗六郷ト云]名主在勤中ナルヲ以テ左内ハ乃チ人民ノ代理トナリ出願セシモノナリ」とあり、八幡塚村を代表して出願したことが分かります。
14)六郷橋架橋計画図
明治4年(1871)11月25日
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)
仮橋に続いて上下に伸びる道が東海道で、上部に川崎宿を、下部に八幡塚村を描く。
また、仮橋の右に描かれた橋は明治3年10月に完成した六郷鉄道橋。
仮橋と鉄道橋の間には「鉄道従仮橋迄凡三百間」(約545m)と記されている。
15)六郷川仮橋履歴
年欠
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)
六郷川への仮橋架橋について、計画から流失まで記される。
川崎駅とのやり取りなど、当時の状況を窺い知ることができる。
直ちに鈴木左内は工事に着手しますが、六郷渡船を運営する川崎駅(川崎宿は明治2年より川崎駅と称した)も静観してはいられません。「六郷川仮橋履歴」には、「突然向岸川崎駅ヨリ拒障申出テ、亦近傍村々ヨリモ拒障申出苦情続発セリ(突然川崎駅から架橋反対の申し出があり、近傍の村々からも苦情が続発した)」と記されています。川崎駅の反対理由は、六郷川が東京府と神奈川県の境界線であるにも関わらず、その架橋について品川県が独断で許可したというものでした。ただし、これは表向きの理由であり、実際には架橋が渡船運営の転換に繋がることは必至であることから反対したと考えられます。
なお、この出願から2か月後の12月14日、明治政府は太政官布告第648号によって新道開拓および架橋を奨励し、落成後は工費の額に応じた通行料金の取り立てを許可しました。この政府の新方針により架橋は奨励されたものの、川崎駅をはじめとする近隣村々の反対もあり、大蔵省駅逓寮は鈴木左内および川崎宿名主を召喚して示談するよう説諭しました。しかし、川崎側と合意が取れず、翌5年3月に架橋の許可は取り消しとなります。
これにより六郷橋架橋計画は一頓挫することになりますが、出願人である鈴木左内は次のように当時の様子を記しています。
八幡塚村人民ニ於テハ曩ノ志嚮ヲ更エ一同架橋望願之意ナキヲ左内ニ断ス、故ニ左内一個トナリシモ更ニ意志ヲ換ヘス単身四方ニ奔走シ、一方ニハ苦情ヲ防止シ、一ニハ志望ヲ遂ケント欲シ焦心苦慮実ニ当時ノ艱難能ク筆硯ノ竭ス処ニアラズ
(東京府からの許可取り消しを受け、八幡塚村の人々は架橋の要望を取り下げた。そのため、鈴木左内は架橋に関して村の代表という立場ではなくなったが意志を変えず、架橋実現に向けて奔走した。一方には苦情を防止し、一方には希望を遂げようと焦心苦慮した。)
16)差上申一札之事(部分)
明治5年(1872)6月7日
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
川崎駅役人惣代から神奈川県へ提出した請書。
次に確認できる六郷橋架橋に関する記録は明治5年(1872)6月7日のもので(史料16)、ここには架橋の一切を鈴木左内に任せること、万一橋が破損した場合は従来通り川崎駅が渡船営業を行うことが記されました。川崎側にとって示談の決裂から3か月での方針転換となりますが、そこには政府の架橋奨励や鉄道の敷設など、時代の変化が大きく影響していると考えられます。これ以上の架橋の妨げは適切ではないと判断した川崎駅は、将来渡船が必要となった際の渡船営業権を得た上で架橋計画から手を引きました。
架橋準備を再開した鈴木左内は、「仮橋入費高上り取揚見積帳」(史料17)を作成しました。鈴木左内は私費で架橋するため、落成後は工費の額に応じた通行料金を徴収し、架橋に要した金銭を償却することになります。そこで支出・収入の予定総額から償却に要する期間を算出する必要がありました。
史料17によると、架橋費は橋杭代や人足代、渡橋賃取立会所の土地代など、総額3,562両175文となっています。一方、架橋後1年間の渡橋賃による収入見積りは、約1,241両100文です。ここから渡橋賃取立人の給金や消耗品代を差引くと815両100文が残るため、架橋に要した金銭は凡そ52か月で償却できます。
17)仮橋入費高上り取揚見積帳(部分)
明治5年(1872)9月
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)
架橋にかかる費用および落成後の収入見積りで、水主28名に対する離職補償金の支払いについても記されている。
史料16にある「一方ニハ苦情ヲ防止シ、一ニハ志望ヲ遂ケント」奔走した一つがこの補償金であり、
川崎駅の方針転換には、鈴木左内のこうした対応が影響した可能性も考えられる。
18)当今通行之者賃銭付取揚高凡見積(部分)
明治5年(1872)9月
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)
本史料で取りまとめた数字が、史料17に記載された渡橋賃1年分の根拠となっている。
19)六郷川仮橋麁絵図
明治5年(1872)
大田区立郷土博物館蔵(鈴木家文書)
明治5年9月に作成された橋の仕様計画書の附属図面と考えられる。
橋の長さは60間・幅3間、橋板は杉角1,600本、橋杭(橋脚)は
松丸太3本建て21列であった。
また、入費・収入見積り(史料17)と併せて通行料見積り(史料18)と橋の仕様書(史料19)も作成しました。史料18では、往来の1日平均を500人・人力車50挺・馬車5挺・馬15疋と見積り、夜分往来(銭9貫850文)も加えて銭24貫625文を渡橋賃1日の平均収入とします。しかし、この夜分往来については同年11月に実地調査を行ったところ、見積りより通行量が多かったことが判明し、銭55貫150文に修正しました(表1)。この「夜分」については六郷渡船の夜詰となる時間(暮六つ時、現在の午後5時~7時半頃)以降を差していると考えられ、明治5年(1872)当時の夜分乗船者数の実数を知ることができます。夜分だけでも相当な数になっており、日中の往来数も勘案すると、六郷渡船が生活の中で不可欠なものであったことが分かります。
20)東海道六郷川架橋ニ付道路変換ノ伺(部分)
明治6年(1873)10月5日
国立公文書館デジタルコレクション
明治6年9月から10月にかけて作成された
架橋に伴う新道敷設についての伺い。
明治6年(1873)3月、鈴木左内は北品川駅芳井佐右衛門と北大森村塩沢重蔵を同盟人として再度願書を提出しました。その後、東京府より許可を得て工事に着手しますが、この際、「渡船場へ向かう道路が屈曲して往来が不便であるため、約60間川上へ架け渡したい」と要望しています。史料20の道路変更前図面を見ると、朱で描かれた東海道が川崎側の渡船場(絵図右手)に向かって大きく曲がっていることが分かりますが、鈴木左内はその屈曲を改めて東海道を直線に修正し、その先に橋を架け渡すことを計画しました。
本計画に対し、東京府からは「渡船場と異なり水の流れが強く川底が深いため、橋を維持するには覚束なく思われる」という意見が出たものの、水害のないよう出来るだけ手厚く造営するとして新道敷設・架橋工事は進められました。