慶長5年(1600)7月、徳川家康の命により、六郷川と通称された多摩川下流部に六郷大橋が竣工します。六郷大橋は両国橋・千住大橋とともに江戸の三代大橋の一つに数えられる大規模な橋でしたが、当時の多摩川は堤防も十分ではなく、頻発する洪水により破損流失と再架を繰り返していました。そして、貞享5年(1688)7月21日、氾濫した多摩川は六郷大橋を押し流し、以降、時代が明治に切り替わるまで橋が架けられることはありませんでした。
1)江戸より九州五嶋まで道中図巻(部分)
貞享4年(1687)写
大田区立郷土博物館蔵
江戸から長崎までの陸海路を描いた絵図。多摩川には六郷大橋が描かれ
「ろくがうの橋百九間」(約198m)と記されている。
六郷大橋は本図が描かれた翌年に流失するが、
それまでにも幾度か流失しており、その都度架け替えられた。
六郷大橋流失後は渡船が用いられ、宝永6年(1709)に川崎宿がその担い手として登場します。当時の川崎宿は過重な伝馬負担に疲弊しており、宿財政は窮乏していました。川崎宿の本陣・名主・問屋を兼務する田中丘隅は六郷川の渡船賃収益によって宿財政を再建させるべく、宝永3年(1706)より川崎宿の渡船請負を幕府に働きかけます。その結果、幕府は伝馬存続のため、同6年3月15日に川崎宿請負を許可するに至り、高札を下付しました。
2)川崎年代記録 上(部分)
安永7年(1778)
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
宝永6年3月の渡船業務開始に際し、川崎宿に高札が下付された。
高札には渡船に関する定が記載されており、本史料はその文言の写しである。
高札は渡船運営・渡船賃徴収を幕府が認めた証であった。
3)東海道分間絵図(部分)
元禄16年(1703)
川崎市市民ミュージアム蔵
東海道沿いの様子を絵入りで紹介した蛇腹折りの絵図。
京都三条大橋から江戸日本橋までの宿場や名所、名物などが記載される。
六郷川には「六郷川舟わたし」とある。
川崎宿は自然堤防上の高い位置に宿場入口となる土居(堤のこと)を築き、その土居の外側に渡船場を設けています。この渡船場近くに仮設の船場会所を設け、当初は宿役人が直接賃銭の徴収や雇用した水主の采配、日入帳の記入などを行っていました。しかし、この出向による直接経営には限界があったため、のちに宿民中などから請負人を募り、川崎宿と契約した請負人が直接運営に当たることとなります。すなわち渡船業務は宿役人の責任において宿内および近郊百姓に請け負わせるものであり、その内容については詳細に証文を取り交わし、請負人はその取り決めに従って渡船運営を行ったのです。
4)川崎宿船場町絵図
明和2年(1765)3月
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
会所は渡船賄場で最も重要な場所で、絵図では「御用」と書かれた幟が立っている。
絵図中央には高札場があり、正徳元年(1711)5月の高札が掲示された。
また、絵図下方の川崎側渡船場の手前に水主小屋があり、水主頭・水主衆が昼夜交替で詰めた。
5)六郷川渡船賃高札
正徳元年(1711)
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
六郷渡船にかかる賃銭を記した高札。背面には「六郷川渡船場」の墨書がある。
この年の駅制改革により、伝馬賃銭および渡船賃の元賃銭が制定された。
6)六郷川渡船場水制絵図
(江戸時代)
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
川崎宿渡船場の水制を描いた絵図。絵図左手には船が描かれ、
その右隣に岸から張り出した土出(土で築いた堤防)が2か所配置される。
また、川岸を浸食から守るため、土出の隣に杭出し(川岸前面に杭を数列打ったもの)も造られていたことが分かる。
六郷渡船場には馬船8艘・歩行船6艘、計14艘の船があり(史料7)、このうち8艘が常用船として利用され、川崎・八幡塚(現・大田区)の両渡船場に4艘ずつ配置されました(馬船2・歩行船2)。残りの6艘は川崎宿渡船場の下手に係留され、御用通行が混みあった際に使用されます。乗船は24時間可能で、明六つ時(現在の午前5時~7時頃)から暮六つ時(現在の午後5時~7時半頃)までは常用船8艘で、夜分は4艘で対応しました。
渡船は橋と異なり落橋などによる通行止めはありませんが、暴風雨などから川留となることがあります。六郷渡船場は平水が5合、7合になれば馬越留(馬の渡河禁止)、8合で歩行船留となって全面渡河禁止となりました。水が引くまでの数日間往来ができなくなるため、渡河方法が渡船しかない当時にとって川留は大きな障害でした。
なお、水主や会所役人の給金は、1年1両3分や4両といったように金額が決まっていました。天候や利用者数に左右されず収入が確保できた点から、安定した職業であったともいえます。六郷渡船は川崎宿の伝馬存続に必要なものであると同時に、渡船場で働く人々にとっても生業の場として欠かせないものとなっていました。
7)御用留(部分)
寛政4年(1792)1月~同10年(1798)11月
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
六郷渡船に関わる事項を書き留めた史料。渡船賄場の従事者は、
会所詰役人4名・水主頭4名・定抱水主24名で、川崎と八幡塚の
両渡船賄場に半数ずつ分かれて勤務した。水主は昼詰16人・夜詰8人体制であった。
8)証文之事(渡船場賃銭請負並ニ渡船場勤方之儀)(部分)
天保9年(1838)11月
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
天保10年5月より6年間の渡船業務請負契約を取り交した証文。
渡船運営において請負人が遵守すべき16か条が書き上げられており、請負人が川崎宿に提出した。
9)六郷川諸入用請払仕上勘定帳(部分)
文政3年(1820)12月
川崎市市民ミュージアム蔵(森家文書)
文政2年(1819)5月から翌3年4月までの収支が記載される。
この時期の渡船賃は正徳元年(1711)に定められた賃銭に加え、
割り増し賃が上乗せされていた。渡船賃総額は878両銭42文9分と
かなりの収益を上げていたが、川崎宿へ差し出す金額が572両銭408貫と大きく、
給金や消耗品類を差し引くと赤字になった。
もっとも、臨時手当や渡船賃外の礼金など、
勘定帳に記載されない収入もあったと考えられる。
10)歌川広重 東海道五拾三次之内
川崎 六郷渡舟
天保4・5年(1833・1834)
大田区立郷土博物館蔵