ブルーノ・ムナーリ
BIOGRAPHY_ムナーリ年譜
ブルーノ・ムナーリ年譜 1907ー1998
制作: 岩崎 清、有福 一昭、石井 希代子
●1907(0才)
10月24日、ブルーノ・ムナーリはミラノに生まれる。ブルーノが6才のとき、彼の両親ピアとエンリコが田舎町で旅館を営むために、北イタリアのヴェネト州のアディジェ川の河畔の小都市バディア・ポレジネに移り住む。ムナーリはアディジェ川の水流、河畔の水車の機械的な回転運動など、田舎の自然のなかで事物を見つめる観察力を養いながら、バディア・ポレジネの少年時代を過ごしたと回想している。両親の旅館運営を手助けするために朝から晩まで寝る暇もない生活に疑問を感じたムナーリは、18才のときエンジニアの叔父の仕事を助けることもあって、単身ミラノに戻りグラフィック・デザインのスタジオで働き始める。
●1927(20才)
ミラノに出て間もなく、20才になったばかりの好奇心旺盛なムナーリ青年は、ある本屋で出会った未来派の詩人エスコンダメ(レスコヴィッチのペンネーム)と出会い、フィリッポ・トマソ・マリネッティを紹介されて、「未来派の第二世代」に属する芸術家たちのグループに参加することになる。第二世代の芸術家、デペーロ、ドットリ、ゾルダーティ、プランポリーニなどは1900年前後の生まれで、ムナーリとはほぼ同年令の若者であった。そしてかれらとともに、数々のグループ展に参加する。とりわけギャラリー・ペザーロでは、5年間に4回(1927,1929,1931,1932)も展覧会を行う。またヴェネツィアのビエンナーレ(1930,1932,1934,1936)やローマのクァドリエンナーレ(1935)、ミラノのトリエンナーレ(1936,1940)にも参加する。
●1930(23才)
彼の最初の作品となる機械「軽やかな機械」を発表。この作品は1933〜1934年の間のわずかな期間に劇的に変化をとげて、後に「役に立たない機械」として有名になるシリーズに変化してゆくことになる。その間に、その発想の独自性のために数々のアーティストの中でも評判が高くなっていく。事務所におけるグラフィック・デザインの仕事は生活のために最小限継続される。1930年から1937年までリッカルド・リカスとともに「スタジオR+M」を設立して、「ラ・レットゥーラ」「ナトゥーラ」「イル・セッテベッロ」「グランディ・フィルメ」「ルフィチョ・モデルナ」など多くの雑誌と共同のグラフィック・デザイン専門の仕事を行う。
●1933(26才)
当時パリに滞在していたプランポリーニから、アンドレ・ブルトンやルイ・アラゴンなどシュルレアリストたちの名前を耳にする。「役に立たない機械」を発表。この作品へのマリネッティの「われわれは機械の素晴らしさを称賛するが、ムナーリ、きみはそうではなくて役に立たない作品を作るのか」というコメントに、ムナーリは「マリネッティはユーモアのセンスがほとんどない」と述べている。
●1934(27才)
ディルマ・カルネヴァリと結婚。
●1937(30才)
未来派の詩人、フィリッポ・トマソ・マリネッティの「イル・ポエマ・デル・ヴェスティート・ディ・ラテ」のイラストを手がける。未来派の芸術家たちの本やカンパリの広告企画の仕事をする。彼のアートやグラフィックの仕事や制作活動が際立ち、独創的なスタイルに発展をとげ、未来はのグループからは徐々に離れてゆくことになる。当時のイタリアのアーティストたちの活動からも一線を画し、独立的な立場になっていく。
●1939(32才)
第二次世界大戦(1939〜1945)の数年間は、出版社モンダドーリのもとで働いたり、ミラノの近くの高射砲兵隊の兵役の仕事と、唯一この数年間だけ軍属関係の仕事をして過ごす。
●1942(35才)
出版社エイナウディから幸運にも「ムナーリの機械」が出版され、その2年後にドムス出版社からも「Fotocronache」(ニュース写真)が出版される。
●1945(38才)
戦争が終わるとともにムナーリは独立にこぎつけ、モンダドーエリから子どもたちのための革新的な本のシリーズが出版、各国の言葉にも翻訳されてその後も継続して再販されている。その本を作るきっかけは、ひとり息子のアルベルト(1934年に結婚した妻ディルマとの間に1940年に誕生)の教育であった。ムナーリによれば、アルベルトの5才の誕生日に絵本をプレゼントしようとしたが、ムナーリが納得するものがなく、それでは自ら制作してしまおうと10冊のシリーズを構想したということである。(当時刊行されたのは7冊で、後年2冊が実現した)。さらに数年グラフィック・デザインの仕事も続けるが、同時に立体作品も企画する。「時間X」の原型などの原案を作っている。
●1948(41才)
ミラノでMAC(Movimento Arte Concreta: 具象芸術運動)をジッロ・ドルフレス、ジャニ・モネ、アタナージオ・ソルダーティなどと設立。この運動は、絵や建築、造形美術、そしてプロダクトデザインなどの分野にわたり、幾何学的な抽象表現主義的な観点から「芸術」を考えるという提案をおこない、イタリア美術界の改革に貢献した。この運動は1958年まで続いた。ムナーリは機関誌に彼の独特で挑発的な考えにみちた「オブジェの本」を発表する。さらに、数々の個展やグループでの展覧会を行う。
●1950(43才)
「読めない本」を発表する。
●1952(45才)
この年に制作したフォームラバー(一種のスポンジゴム)を使った玩具「こざるのジジ」が1954年にコンパッソ・ドーロ(黄金のコンパス賞)を受賞することになる。その翌年には、卓上用のアイスペールで再びコンパッソ・ドーロを受賞する。
●1955(48才)
1955〜1956年「偏光する光とその動き」を発表。
●1957(50才)
ミラノのダネーゼ社と共同で、一連のプロダクトデザインのオブジェを企画し始める。クーボという名前で呼ばれる有名な「立方体の灰皿」を発表する。
●1958(51才)
「旅行のための彫刻」、「ムナーリのフォーク」。
●1962(55才)
ミラノのオリベッティ社との共同で、「プログラム・アート」展の企画・構成をおこなう。1961年から65年にかけてダネーゼ社と「くりかえしの構成」などマルティプル作品の企画をする。
●1964(57才)
「オリジナル・ゼログラフィーア」を発表。
●1967(60才)
ハーバート大学の「カーペンター視覚芸術センター」から招待されて、視覚情報伝達の講義をおこなう。この講座により、デザインにおけるムナーリの方法論が確立されたともいえる。この講義がその後の視覚論的なシリーズ本を生み出すきっかけとなる。
●1968(61才)
教育学者のジョバンニ・ベルグラーノとの共同作業でダネーゼ社のために最初の教育的な遊具の企画をする。彼は平行してグラフィック・デザインの仕事を続けていて、エイナウディ社の重要なシリーズのグラフィックな仕事を企画していたが、子どもの世界により一層深く向かおうとしていた。
●1969(62才)
「空気を見せるための概念的な行動」を発表
●1970(63才)
1970〜71年にかけてロボット社と共同で、形を自由に変えられる子どもたちのための居住構造の「アビタコロ」(小さな部屋)を制作する。同じように、一連の家具調度品のシリーズ「本棚」、「ディヴァネッティ」(小さなソファ)、「タヴォリーニ」(小さなテーブル)などを制作した。これらは今日まで製品化されている。子どもの領域については興味は遊具だけではなく、さまざまな本のシリーズ、特に子どもや就学前の用事のため「本に出会う前の本」を実現した。
●1971(64才)
ウルム・シュピール・グート賞(ドイツのウルム)を受賞。後年の1973年と1987年にも同賞を受賞。
●1974(67才)
子どもの本のより優れた作者に対するアンデルセン賞を受賞。「ペアーノの曲線」を発表。
●1977(70才)
子どもたちのためのさまざまな作品の制作から「子どものためのラボラトリオ(ワークショップ)」の実現に専念し始め、より多面的な企画のために仕事を行うようになる。この年、第一回目のワークショップが、ミラノのブレラ美術館で行われ、その後すぐにいろいろな種類のワークショップに発展してゆく。中でもいちばん多いのが視覚言語に関するワークショップで世界中の美術館や児童の文化施設からの要望がある。これらは後年「ムナーリ・メソッド」として名前が知られるようになり、現在ジュネーブ大学の心理学名誉教授である息子のアルベルト氏によって引き継がれている。
●1979(72才)
「アビタコロ」でコンパッソ・ドーロ賞を受賞。ニューヨークの科学アカデミー名誉賞を受賞。1979〜1980年にかけてダネーゼ社から「本に出会う前の本」を出版。
●1980(73才)
「オイル・オン・カンバス」を発表
●1985(78才)
ジャパン・デザイン・ファンデーション大賞を受賞(日本・大阪)。「ブルーノ・ムナーリ展」開催(こどもの城・東京)
●1986(79才)
レゴ賞受賞。ヴェネツィア・ビエンナーレに招待される。彼のアーティストとしての活動が再評価されると同時に、ミラノ、エルサレム、パリ、チューリッヒなどの有名な場所における個展も開催されるようになる。彼のアートは、主義・主張が多い現代美術の風潮のなかで、発想も作品も風のように軽やかな動きをするので、ひとつの型におさめるのはとても難しい。すでに評価の高い「陰と陽」「旅行のための彫刻」「ムナーリのフォーク」「オリジナル・ゼログラフィーア」「ペアーノの曲線」「オイル・オン・カンバス」「ハイ・テンション」、「役に立たない機械」「不規則な機械」「プログラム・アート」などが、最近の認識では1950〜60年代にかけてミラノの多くの芸術家たちに少なからず刺激的存在であり、影響力があったということである。
●1988(81才)
グラフィック・デザインの業績でアカデミア・リンチェイ賞を受賞。ザノッタ社から「短い訪問者のための椅子」などの家具を発表。
●1989(82才)
ジェノヴァ大学の建築部門における功績により名誉博士号を与えられる。
●1990(83才)
「ハイ・テンション」を発表。
●1993(85才)
「素材としての表意文字: 漢字」を発表。建築家のマルコ・フェレーリと「布団の本」を企画・発表。
●1995(88才)
デザイン分野の仕事はこの年まで継続して行われる。デザイン分野での長年の業績によりコンパッソ・ドーロを受賞。スウォッチ社から腕時計「テンポ・リベロ」を発表。
●1997(90才)
10月24日、ミラノのトリエンナーレで、彼の90才の盛大な誕生日のパーティーが催され、2000人の人びとが参加する。
●1998(90才)
9月29日、ブルーノ・ムナーリはミラノの自宅で90才の生涯を閉じる。

